猿島郡の由来と実態古河・総和・五霞はもともと”葛飾郡”なのです

余り知られてませんが、古河・総和・五霞は元々下総国葛飾郡なのです※1
明治の廃藩置県の際、古河県→印旛県→千葉県と統合が進んだ際、葛飾郡のうち大日川(江戸時代天保の頃は坂東太郎川と称し、現在は五霞と栗橋の境にある権現堂川)より北側を茨城県に編入した際、あわせて猿島郡に統合したのです。
当時は利根川よりも大日川で分けるのが良いと思われていたのです。五霞町のみ「川向こう」となっているのはこのためです。
ちなみに、古河・総和、そして野木・北川辺の一部が古河藩、五霞・境は関宿藩、三和は関宿藩・山川藩が基本ですが、古河藩だったときも多いようです。

「猿島郡」の7市町での合併をうたう「〜目指す会」は、”行政機関・施設”が郡にあるかのように主張していますが、本当にそうなのか、郡にこだわる事に意味があるのかを、歴史を遡って検証します。
(歴史家ではないので、間違いがありましたら、メールゲストブックへの書き込みでお知らせ願います)


  1. 郡の成立
    郡は7〜8世紀に、律令制により国とともに設置された行政区画・機関の一種でした。古河は下総国葛飾郡になりました。現在の野木町の一部も葛飾郡に含まれます。このため、野木も古河藩だったようです。

  2. 群の崩壊−名前だけの存在に
    平安時代になり、有力貴族の荘園となることで徴税を免れるいわゆる荘園制度が広がり、更に鎌倉時代には地頭が土地を支配し徴税するようになると、郡は行政機関としてでなく、単なる地域の名称になりました。

  3. 行政機関としての復活と廃止
    明治になり、郡は地方行政機関として復活します。しかし大正になるとまた廃止されました。このころ古河は、廃藩置県とその後の統合により、茨城県猿島郡となっています。

  4. 再復活
    戦時下の昭和17年、県の出先機関として、郡単位に地方事務所が設置されました。猿島郡では境町に設置されました。古河のほうが発展していましたが、今のように車が普及していない当時、「猿島郡の中央」ということが設置場所選定では大事だったようです。ひょっとすると「古河は”葛飾郡”で猿島郡ではないから」という考えもあったかも知れません。

  5. 結局廃止
    戦後、地方事務所は廃止され、結局名前だけの存在に帰しました。
左記のように、郡とは”昔々”朝廷が作った行政単位です。当然今の生活圏とは食い違います

「〜目指す会」のチラシ「資料4」をお持ちの方はそれを見て下さい。そこには「広域市町村圏」という考えのもとに、行政事務(略)などの共同の仕組みを築いて、行政サービスと行政の効率化を目指してきました」とあり、具体例として、”古河岩井保険医療圏”等をあげています。

これらの機関には共通点があります。すなわち、行政側の必要によって設置されていることです。そしていくつかの市町村にまたがる場合に、その範囲を名前だけの存在で「生活圏」とは異なる「郡」に求めたのです。それこそが「郡」という行政機関があるかのような錯覚を生む原因です。

道州制導入も検討されている21世紀になった今、「生活圏」にあった行政単位を作り、住民本位で必要な施設を、場合によっては民間の力を借りて作ることが必要ではないでしょうか。

「〜目指す会」は”古河岩井保険医療圏”はの説明で、中核となる病院が茨城県西南医療センター病院ですと書いています。しかしこれも国の方針「地域のどこからでも1時間以内であること」を満たすために場所を選んだに過ぎません。古河−総和−三和、境−岩井−猿島という「生活圏」にそくして、それぞれが最適な配置を考え、病院誘致などをすれば、「地域のどこからでも30分以内で行ける」中核病院ができるのではないでしょうか。また、十分管理の目が届き、無駄も無くせるのではないでしょうか。それこそが、結局は「行政サービスと行政の効率化」につながるものと思います。

 

※1 総和町小堤で、「証拠」を見つけました。(リンクの地図のところです)
   10何年かに一度開帳される観音様があるところです。たまたま通りかかったときに、石碑を見て気づいたので写真もありませんが、石碑の後ろにこうあります。
   下総国葛飾郡小堤村〜

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